丹波の赤鬼・青鬼そして荒木鬼 荒木城〜燈明寺山(丹波山上)・栃梨城・貝田城
山行日 2000年07月08日
瑞祥寺〜荒木城址〜燈明寺山(401m)〜燈明寺(丹波山上)〜三熊
細工所城(荒木城)〜鉄砲丸〜丹波山上<再訪> 2004年06月05日
細工所城登山口と城山(中央奥)

近畿の山城細工所砦(荒木氏居館?/城郭類似遺構?)と細工所城
       鉄砲丸と幡路砦 栃梨城 貝田砦?と貝田城



瑞祥寺〜細工所城〜燈明寺山(丹波山上)〜三熊 H12.07.08

毘沙門山〜櫃ヶ岳縦走しR173号へ戻り福井からは櫛石窓神社によって少し休みます。この神社は全国でたった一つしかない珍しい社名。小さな境内で裏山?も丘のような宮山の山頂付近に幾つかの巨石が望まれる。皇居の御門を守護する神を祀り多紀・氷上郡内でも此処だけの延喜式(名神)大社で神体の坐像3体は
細工所砦・東尾根を遮断する堀切・土塁上に権現社を祀る

平安中期のもので 国の重要文化財に指定されています。八ヶ尾山や篠見四十八滝への分岐に立つ山猿の案内標識を見ながら細工所にあるハートピアセンタ(特産品販売・レストラン)に寄ってみる。細工所は戦国武将荒木山城守氏綱と明智軍の激戦地で細工所城があったところ。休憩所・遊歩道のようなところの正面に集落内の車道に細工所城址の案内板があり由緒ありげな風情の萱葺門の民家前を進む。正面に登って行けそうな田圃沿い畦道もあるが道標の案内看板には左手方:此の先井串バス停前の 瑞祥寺・那須与一大権現の看板の方が気になり南へ辿ってみる。
丹波山上(燈明寺)の石段下に立つ不動尊

瑞祥寺と那須与一大権現は後日訪れることにして石段手前で右への山道が尾根に沿って続いており朽ちかけた古く小さな稲荷社が大権現?なのでしようか?。何処に続く道かだんだんわからなくってくる…というのも尾根からは同じような高さの山が 左右に見え少し低い方が荒木城・高い方は燈明寺山だと思うので分岐へ引返す。いつの間にか道は小道になって燈明寺山方面に続くが山頂手前で消えてしまう?。細い踏み跡も消え藪漕ぎで前方の高みを目指して荒木城方に寄ってみるが展望はなく、この時期の藪漕ぎ山行は最悪。明瞭な道は先に続いているが尾根を外れて行くようなので忠実に尾根を辿り山頂だが、こちらも藪の中に段差のある平坦地形で何か建っていたのかも知れない。
丹波山上(燈明寺)

山頂からは下降が続き昔の寺跡地の様な平地の竹藪になり先に石仏とお堂が見えます。無人の寺だが手入れされているようで掃き清められています。石仏が並び石段上の石標には丹波山上の文字燈明寺までの今辿ってきた道は幡路や草ノ上からの一般参道とは別に修験の道だったのでしょうか。(大阪和泉・葛城・犬鳴山も修験の道として東と西に燈明寺山がありましたっけ)本堂前には護身剣に巻きついたかわいい丸い眼の白い龍の石像もあります。本堂裏手に続く道は山上広場に出てくると役行者と不動明王の石像。万光坊の石碑が立つ。先に続く尾根筋がよく判らず…
細工所城主郭と 北面:切岸高い2段曲輪

踏み跡は急下降となり引返し別の尾根に乗るがこの道も怪しくなってきました。草ノ上集落へ下るつもりだったのに見知らぬ林道に降り立ちました。地図なし・コンパスなしでは良くある失敗です。結構長いオフロードは三熊へ通じる林道です。櫃ヶ嶽が見えた時点でシマッタ…結局長い長い林道を大芋の茶屋ノ上バス停へ出ます。目の前の173号は福井の交叉点です。毘沙門山を再見してまたも長い車道歩きで細工所へ戻ります。


細工所砦と細工所城  鉄砲丸と幡路砦 栃梨城 貝田砦?と貝田城)

細工所砦(荒木氏居館?/ 明智方の砦?/観音寺遺跡(城郭類似遺構?) 280m  細工所北カイチ・井串字南谷
細工所城(荒木城・井串城)
    404m  篠山市細工所字城ヶ谷・井串

高城山(八上城)を南般若寺城を北に見る篠山川沿いに走る県道702号雲部車塚古墳を過ぎて暫らく走ると細工所交差点でR173号線に合流する。正面に八上城主波多野秀治の重臣で「波多野氏旗頭七人衆」と謳われ”丹波の荒木鬼”とも恐れられた荒木氏綱の細工所城(荒木城)がある。
細工所砦の堀切・土塁を秋葉社祠から

集落内の登山口には城址案内板(篠山53次ガイド)が立ち茅葺屋根の門が武家屋敷風情の民家・道を挟んで向かいの倉庫には「首領百姓XX農場」とある!!。取付きは何処から!!。集落内を山手に進む方向が判り難い細工所城(荒木城)登山口の案内導標が立つ。【最近:城名を荒木城と読み替えているのか?。城域内のコース途中に細工所城名の案内表示等が朽ち倒れているのを見掛ける!!。 荒木城が本名か別名かは知らないが…細工所城を本拠城とする荒木氏一族の諸城砦群の一か?
細工所城・北西郭へ向う土橋!(東側から)

八上包囲の陣城として八上監視に充った明智方の砦であったか?詳細不明だが小立の清滝城<仮称>(市でも未認識・未調査と思われる城砦遺構)の他雲部車塚古墳周辺の東本荘・県守にも県守城・口県守城・東本荘市谷城…等の荒木氏の城砦群と推定する城遺構はある。さて先程の案内標柱から正面に直進する畦道の先は 奥の田圃で行止まりだが藪の急登尾根筋を辿ると尾根筋の細長い土橋を経て向かう搦め手道?は主郭西尾根先にあるL字状土塁が残る曲輪に登り着き・更に土橋状尾根を中央郭に延びる…が正規登城ルートは右に折れ南に進むと 登山口を示す案内標識がある南尾根への取付大手口

細工所砦(居館?/明智駐屯地か?…城郭類似遺構)260m 篠山市細工所北カイチ・井串字南谷

大手口を見送って細工所砦に向かう。
【注:大手登山口を辿ってすぐ広い数段の平坦地と役行者像を祀る祠・一段上方には稲荷社を祀る櫓台状大土塁の背後を大堀切状(谷側斜面まで掘切られていない?が民家に繋がる山道か?)があり細工所砦・荒木氏居館!?を此処とされてもいるようだが?、
もう一つの砦・居館跡?は大手登り口直ぐ!!堀切・櫓台状土壇には稲荷社

大手道が城主居館内を抜けるのか!?…尤も大手口を固める出曲輪なり細工所砦として此処が機能したものか?、また池田方面からの綾部街道筋を見下ろし京丹波亀岡福住方面からの京街道にも近い位置にあり細工所城落城後に明智軍が八上包囲と、両街道筋からの波多野氏方援軍の侵入を警戒・阻止するため兵を駐屯させる砦としては適地】
切岸高い位置に立つ瑞寺自体も 城砦遺構の曲輪か!!:荒木氏居館か?・細工所砦か?・細工所城(荒木城)落城後の八上城向城か?単に寺院跡なのか?…
   瑞寺裏手:墓地上に拡がる段曲輪(城郭類似遺構!?)

兎も角城郭類似遺構としてUPしておきます。天文年間(1532〜1555)園部城?に拠っていた荒木山城守氏綱(氏香)荒木城(細工所城)を築き大手口に近い東細工所(井串)の瑞祥寺背後の丘陵部に居館を構えた跡と推察されます。霊輝山瑞祥寺(曹洞宗)も天文年中:城主山城守氏綱が洞光寺 七世一華現易和尚を開山に創建した寺だが細工所砦(荒木氏居館)の広い曲輪(30mx60m程の平坦地)は其の際に移した寺院跡だったかも?。平安時代末期・那須与一が病気平癒を祈願した元:法楽寺か!?那須与一宗隆が後:別所にあった観音寺の観音堂を
細工所砦!!(権現社のある主郭?への連絡道)

此処に遷したとされる那須与一大権現があり武運長久・諸願成就・中風封じに霊験があると云う。荒木氏居館跡とされるが天正5年明智軍の猛攻に細工所城は落城、その後居館跡・大手口の砦は八上城包囲の明智軍が兵を置いた駐屯所とも考えられる。天正7年(1579)明智光秀の八上城攻めでは波多野秀治に仲直りの使者として本目城(神尾山城)の野々口西蔵坊と荒木山城守を八上城へ行かせるが 此れが策略であったことは周知の事実ですね。寺・墓地側からでもよいが丘陵麓の地区道北集落側からは尾根筋沿い斜面の竪堀状を進むと、
細工所砦の袖曲輪?からの瑞祥寺・右手は墓所に接する

深く掘り切った竪堀?(堀底道)の丘稜尾根続きの山側を遮断する堀切となる。城域の尾根側最奥部には幅の広い曲輪(櫓台曲輪!)の土壇背後に回り込む堀切状(空堀)?となって山側を遮断している様。櫓台曲輪!内土壇には秋葉権現社が祀られている。尾根を遮断している筈の堀切は後年、手が入って削られてか 東南への半分が消え、秋葉社背後は尾根に沿って堀底道状凹部が斜上していく。この尾根を辿れば土橋付き肩堀切・土橋付き堀切を越えて細工所城主郭東端に通じる大手道だったのでしょうか。
細工所砦:土塁枡口虎口状!?

秋葉社を祀る櫓台曲輪の上方:主尾根筋先端?に登り着くと、此処にも南下に1段小曲輪が付く10u程の曲輪。緩斜な尾根筋が上方に続く(未調査)・西斜面からも幅広い堀底道が上がってきている。古い?山林作業道らしく瑞寺の南東下側に降りる。瑞寺上部の南西下へ降りる踏跡が秋葉社(幅10m・長さ30m程)の曲輪下段に直結しており切岸下を”逆への字”の登城道に連絡する広い曲輪に降りる。降り立った北側にも土塁の残欠?を見る。広い平坦地形(凡そ20mx50m程だが、
堀底道から切岸下を一折れして曲輪に入る枡形虎口(

荒れた雑木藪は果樹園や畑地跡・墓地拡張整備等で旧状は大きく改変され数段の曲輪も 均(なら)されてしまっているのかも?)・此の平坦地へ西北端からは1.5m幅の土塁道が曲輪に上がってきており寺院跡だとも思える。荒木氏居館から秋葉社の土壇曲輪を尾根筋先端の物見曲輪?へ辿り、此れより緩斜な尾根伝いに細工所城主郭東端に繋がる大手道!?。秋葉社の下に10m程の曲輪があり其の下10m程の段差を”逆への字”の登城路が連絡して40mx50mの広い曲輪に降りる。降り立った北側にも土塁の残欠が見られます。広い削平地は畑地に利用されていたか。西北側からは広い(1.5m幅)道が曲輪に上がってきており寺院跡ともいわれる。
主曲輪(秋葉社)より更に上部(主尾根東先端部の二段曲輪!)

北直ぐ下方は墓地になり西端は果樹園(栗林!!等)になっており曲輪の旧状は大きく変わってしまったようで数段の曲輪が均されてしまったのかも…。 曲輪群西端の切岸下を廻り一折する上り土塁状から枡形虎口状?を広い曲輪に入る部分もあるが、続く長い平坦地形は荒れた雑木藪・畑地や墓地拡張整備等で改変されているのかも?。細工所城の落城後の荒木城館には明智勢が兵を置いたといわれ 枡形虎口の遺構は此の時のものと考えられています。

細工所城(井串城・荒木城 )   404m  篠山市細工所字城ヶ谷・井串

細工所砦から細工所城への登山コース入口へ引返し、民家の納屋横から登り始める大手登山口は程なく広い削平地に出る。広い平坦段に役行者を祀る祠があり其の先の曲輪を越えると目前に高い櫓台状土壇があり背後に堀切状も見る。高い土壇上には稲荷社が祀られる。逢え有り大きな堀切を越えます。此処の削平された平坦地に稲荷社と思われる祠が祀ってあるのが見えます。
細工所城西北郭のL字状低土塁線

此処からは展望のない登山道をひたすら比高170mを登るだけ。落葉で滑る急斜面にロープが張られており此れを登ると本郭部西下の虎口受曲輪に出て右端から広く明るい山頂の本郭に着きます。東端から南下へと2段ほど曲輪が続き其の先は堀切に架架かる土橋を渡り暫くは雑木の尾根を辿り3段ほどの曲輪(15m程の曲輪を最後に)を経て前回歩いた瑞祥寺から登ってくる道と合流して鉄砲丸〜丹波山上へ向います。
主郭・西北郭間の土橋


主郭から西北への細い尾根の先へも曲輪は延びており竪堀・両サイド急斜面上に土橋が架かり行き着く西端の曲輪は 西末端ではなく内側にL字形の低土塁(1m弱)が北側のコーナーを固めている。天文年間末期(1532〜1555)園部城に拠っていた荒木山城守氏綱(氏香)の居城で荒木城とも井串城とも呼ばれています。東細工所に荒木氏の城館跡があり、
西北尾根・主郭側の竪堀

細工所城落城後明智勢が軍を置いた細工所砦、その東に明智軍が大筒を打ったと伝える鉄砲丸という峰があり此処には無住の灯明寺(丹波山上)がある。丹波荒木氏の出自は諸説あるようだが伊勢国とも志摩国荒木郷富屋からの来住とも。伊勢新九郎に攻められ一族滅亡するが荒木隼人正治尊が波多野氏を頼って丹波へ来て仕えます。治尊の子が山城守氏香で、安芸守氏綱は治尊の弟・大永7年(1527)桂川の合戦で戦死しています。
細工所城・主郭南西尾根側曲輪の切岸(南下側から)

波多野氏の一党『寛政呈譜』には波多野兵部少輔氏義が京都府天田郡荒木村を本貫として荒木氏を称したとされます。八上城主波多野秀治に属した荒木山城守氏綱(氏香!)は丹波の荒木鬼と恐れられた武将で「波多野氏旗頭七人衆」の一人として活躍しました。勇猛な丹波鬼籾井城丹波の青鬼籾井越中守/ 黒井城赤鬼赤井悪右衛門直政がいる事は既にご存知ですね。天正3年(1575)織田信長より”丹波攻略”の命を受けた明智光秀軍に対し味方の軍と桂川(京都)で何度も戦い明智の大軍を打ち破りましたが、
細工所城主曲輪

天正5年盟友細川藤孝(後の幽斎)ら援軍を得て明智方の再攻撃が始まります。福住の安口(はだかす)城や安田城を落とし 幡路から山沿いと西側の両方から細工所城へ大軍で攻め上られ、荒木勢は猛攻をうけて落城し降伏、東本荘の館に引き籠もったといいます。稜線上「馬の背」の絶壁に竹の皮をしいて敵の兵や馬を登れないようにしたが、下から火をつけられ山も城も見る見るうちに焼かれてしまった。
主曲輪から:北面の高い切岸と八上城方面の眺望

竹皮による失敗逸話は丹波・摂津の幾つかの山城の落城話に残っていて兵庫・三田地方でも藍の殿さんの話は、何かへまをしたり、とんまなことを言うと「お前は藍の殿さんかい…」といって茶化すそうです。丹波攻めによる明智軍との壮絶な戦闘を伝える「井串極楽、細工所地獄、塩岡(しょうか)岩ヶ鼻立ち地獄」の俗謡が残っています。井串へ逃げたものは橋の下に隠れて助かったが、細工所では全滅し塩岡地区では勇ましく戦い立ちながら (ぬかるんだ田圃の中で矢を射掛けられて立ったまま…!!)死んでいった」と激しい戦いのすえ:此処に荒木勢は降伏する。
南東尾根の竪堀(左)と土橋

天正7年(1579)明智光秀の八上城攻めで波多野秀治に仲直りの使者として本目城(神尾山城)の野々口西蔵坊と 荒木山城守を八上城へ行かせるが、此れが策略であったことは周知の事実ですね。うまく騙されたとくやしがっています。「荒木鬼」といわれた荒木氏香の勇を惜しんで織田信長から明智光秀の家来になるよう薦め られるが明智方には家来を殺され、八上城まで攻められ敵方の家来になれるものかとことわり東本荘の城館!!に隠退し代わりに自分の息子 荒木氏清ら一族が明智光秀に従い天正10年(1582)本能寺の変や後に続く山崎の合戦や、

南西尾根にも曲輪群の末端を南東尾根同様に堀切る

光秀が近江・坂本城に籠城した時にも籠城に参加したが天王山での光秀滅亡後は荒木氏も滅んでしまいました。細工所城の本郭よりは東尾根を辿り井串の瑞祥寺から通じている山道を辿り丹波山上の燈明寺に向います。尾根途中にある幡路砦や鉄砲丸への立ち寄りついでだが場所や位置は遺構も不確かなので自信がない…。


鉄砲丸/幡路砦
鉄砲丸
  xxx 460m  篠山市草ノ上字寺谷
幡路砦  荒打山 370m 篠山市幡路

井串の瑞祥寺から通じる広く快適な山道は丹波山上の燈明寺まで続いていきます。東へ向う山道の途中から幡路砦(城?)へ寄ってみるが明確な道はなく、消え入りそうな藪の中に踏み跡を追い蜘蛛の巣を払いながら高低差の少ない尾根上を左右に割く様な小さな窪地を見る。堀切だろうか?此処から急斜面というほどでも ないが3〜40m程先で枝尾根の東末端ピークに着く。比較的平坦な30m四方の明るい広場は緩やかな傾斜で東に下っていきます。 曲輪として削平されている様子がない事、先の堀切の弱さで砦跡との判断に自信はない。
鉄砲丸西曲輪と低土塁:此処から荒木城へ大砲を!!?

周辺は低い潅木に囲まれていますが展望はなく下方からR173号を走る車騒や犬の吼え声が近くに聞こえてくる。展望が効けば籾井川に沿って綾部⇔能勢を繋ぐR173と篠山⇔亀岡を結ぶデカンショ街道(京街道)のR372が交錯する要衝を監視する位置にある 幡路砦なので細工所城の支城として、また若狭・山陰街道の要衝と八上城の東玄関を守備する城塞群の一つとして機能したのでしょうか!!。それとも”丹波攻め”で細工所城や籾井城の向城として明智軍が利用したものでしょうか。引き返した元の山道は鉄砲丸直前で踏み跡程度の道になります。ほんの少し手前で尾根を捲くように延びる道が正解なのでしょう。直上した小広い台地が鉄砲丸で、今居る位置で砦・城の判断は出来ません。天正6年(1378)4月”丹波攻め”の明智軍が此処から細工所城に向って大砲で攻撃したという鉄砲丸です。其の曲輪のある西方に向って藪中に入っていくと直ぐ2段になった削平地と西端部には低土塁をみる。 反対に東の燈明寺側へは先程の台地を降ると高さ1m程の堀切!!!!を過ぎると崖状になり短い急斜面の下は竹林になります。此処は旧燈明寺の寺跡なのか鉄砲丸関連の砦遺構かは不明だが広く削平された2〜3の曲輪があり曲輪端が峠道で石仏が並んでいる。
鉄砲丸東・燈明寺側の小堀切!!?

石仏横の石段を登れば「丹波山上」と彫られた石門が建つ燈明寺(無住だが前回訪れたと同様で何時も清掃がゆきとどいていて気持ちが良い)で谷筋に参道があって 北方からは草ノ上、南から登って来る人は稀の様ですが幡路へ通じています。藪尾根を迷走しながら幡路砦へ向います。鞍部に堀切らしい窪地・其処から急斜面を登ると平坦地があり東側に傾斜した台地がある。展望も篠山川・籾井川を望む西に少しはある。自然地形の広い平坦地に城塞遺構らしいものもなく?幡路砦に寄った心算だが自信がなく着たルートを辿り集落からの登路を探るつもりで幡路側から藤ノ木集落へ降り、籾井川を渡ってR173号を細工所に戻ります。


栃梨城
 城山 310m  篠山市栃梨字城山ノ坪

篠山市街地から車塚古墳の傍を走る県道702号がR173号に合流する細工所には波多野氏旗頭七人衆の一人で丹波の荒木鬼として恐れられた荒木山城守氏綱の細工所城(荒木城・井串城)がありました。波多野氏の本城八上城東の入口で京都丹波の船井郡園部・瑞穂・丹波町や綾部へ抜ける要衝で 宿場町福住へ約2.5kmの地点に在り、
籾井川から栃梨城を遠望

主に但馬・若狭街道への東北口を押える東本荘市谷城・城山城貝田砦・栃梨城・幡路砦・細工所城、摂津・播磨への京街道東口を押える安口城・安口西砦・籾井城、南からは池田・能勢方面からの侵攻に備える東山城・淀山城等の各支城や城砦群が互いに連携を保ちながら周辺に点在しています。
栃梨城・南の堀切と高い切岸


細工所城からは南の尾根続きに細工所砦(落城後に光秀軍の付城になった)や幡路城があり、さらに其の南400mR175号が麓をかすめる丘陵南西端に貝田城、真西方向900mの丘陵を北から東を取巻いて南下する籾井川に其の山端を落としている。細工所バス停からは先ず・南方に真直ぐ延びる農道の突き当たりにある栃梨城へ向います。
栃梨城・主郭郭と最奥に堀切端の土塁T

籾井川を渡った向井集落の道端に放置されたように残る朽ちかけた”むらくも”の駅名表示が物悲しい。国鉄篠山線【軍部の要請で昭和19年(1944)現在JR篠山口〜福住間に開通したが其の後赤字路線は地元の反対を抑えて昭和47年廃止された】軍事用路線として村落を外す様に敷設されていても地元には貴重な交通手段ではあったが各駅ごとに小公園や記念館として其の思いを保存している

栃梨城・南端部の土橋付き堀切

加古川線支線の鍛冶屋線に比して僅か28年間で運命を終えた篠山線には其の沿線跡を残念に思っても今に思い出させる愛着は余りなさそうです。城址への取付は籾井川沿い東南の栃梨集落内からが妥当なんでしょうが良く判らず向井集落との間の丘陵最北端部の最も急峻な崖の横から藪を抜けて入山。40m程で尾根に出ると緩やかな稜線の先で城域に入る。小さな平坦地と堀切があり10m程の藪斜面上の平坦地を
栃梨城・主郭郭と最奥に堀切端の土塁U

貯水槽施設が占める曲輪がある。施設整備による破壊か元来の城遺構か判らないが 南へは5m程の切岸加工された斜面を登ると低い段差で南北に長さ60m程・東西に幅15-30m程の細長い曲輪があり南端に主郭があって2m程の段上に15mX5m程の平坦地。其の末端には幅広の土塁があって高い切岸と深く掘下げ・長く堀り切った大堀切が尾根上を遮断しています。更に小曲輪があって土橋付き堀切がある。大堀切付近に集中して堀切・切岸・土塁があり、複数本の竪堀も全て東側に加工が施されており、南から尾根通しや栃梨集落側の麓から城への大手筋からの侵攻に備える城域内では最重要箇所の為か、最も防備を重視した施設が集中しています。
栃梨城・北端部の堀切

荒木氏一族は伊勢・志摩国の荒木郷富屋の出といわれ、伊勢新九郎に攻められ一族滅亡するが戦国末期に荒木隼人正治尊が八上城の波多野氏を頼って丹波へ来住し、その子荒木山城守氏香(高子)が京街道の要衝で多紀郡(篠山市)の東部を押さえる此処に築城し籾井氏の安口城・籾井城とも密接に連携を保ち、細工所城の築いて移った後は細工所城の支城・出城として【八上城砦群の守将として栃梨砦には治尊の弟荒木安芸(丹波守護:細川政元の義子で高国に仕えて大永年中(1521-28)桂川の戦いに戦死したとも…)が永正年中 (1504-21)頃に居たとされます。一説に:氏綱は大永7年(1527)桂川の合戦で戦死しているので叔父が栃梨城を築いて後、天文年間末期(1532〜1554)園部城に拠っていた氏香が入り 細工所城を完成させ移る際・弟の甚之丞政芳に守らせたものか!】に守らせたといわれます。
貝田城・主郭西南端部

荒木一族について不明点が多く主役の氏綱ー氏香ー高子が同一人であったり・親子であったり…消化不良の為、誤りをご指摘戴ければ幸いです…織田信長の丹波平定による天正5年(1577)11月:天引峠に陣をとった明智光秀軍は藤堂高虎等を先陣に大軍で安口城や籾井城を攻めて細工所城に迫ります。細工所城を本城とする周辺の城砦もこの時落城します。其の壮絶な戦闘の様子は 「井串極楽、細工所地獄、塩岡(しょうか)岩ヶ鼻立ち地獄」の俗謡によって激しく悲惨な激戦の様子が伝わります。大江山(加佐郡)や大枝山(亀岡市)の鬼で知られる丹波だが戦国期には武将黒井城主赤井悪右衛門直正を丹波の赤鬼・籾井城主籾井越中守教業の青鬼・此処細工所城主荒木山城守氏綱(氏香)を荒木鬼・勇猛果敢に戦う家臣団は丹波鬼と呼ばれて恐れられていました。


貝田砦?と貝田城
貝田砦  xxx山 260m  篠山市貝田

貝田集落北西の蔵六寺端以後の尾根端にあるのが貝田城です。荒打山(点名:幡路370m)に在った幡路城から鉄砲丸に向う尾根筋の中程から細工所城への尾根に入ってすぐ南へ延びる枝尾根の先端部に城郭遺構があり、土橋付き堀切や曲輪・竪堀まである。
貝田城・主郭と西北部の帯曲輪

薗部から篠山へ抜ける京街道(デカンショ街道:R372号)と大阪能勢方面から天王坂を越えて篠山盆地へ降りてくるR173号の福知山・綾部へ向かう綾部・若狭街道が交差する要衝の福住は「延喜式」駅家(うまや)小野駅のあった旧山陰道。京都から丹波に入って最初の宿場町としても賑わった此処:八上城東口を籾井氏が守っています。井川に沿って北に約1.5kmでR173号が籾井川を渡る地点に丘陵の南西端が接する所の山上に貝田城があり、貝田城の真西約900mには栃梨城があって、籾井川を挟んで本城・
貝田城・西端からコの字形竪堀と主郭を望む

細工所城(荒木城・井串城)の南口を守る支城であったと思われます。ただ貝田城の地形からは比高も低く(約40m)要害とも思えず、緩やかな尾根上の単郭の城。位置的には福住の前谷城や西奥山砦に相対しており 八上城配下の諸城と密接に連携した”知らせの砦”の性格を感じます。貝田地区の墓地と墓地の間の谷筋から尾根にのると南に枝を張るように延びる尾根筋にも踏み跡があるが貝田城へは南西へ戻り気味の尾根筋を辿り、下方に民家の屋根見えるほどに降ったところで土橋付の堀切を越えて城域に入る。
貝田砦の土橋付堀切

緩やかの尾根筋の鞍部状にある浅い堀切は雑草や藪に隠れれば気も付かない程で尾根を遮断する防備より城域を区分する意味合いとしか感じられない程です。築城時期・城主等の城史は不詳だが緩やかな傾斜を持つ尾根上(東西70mX南北30m程)の狭い城域だが低い鞍部に堀幅は狭い(約2.5m)が土橋付堀切と、円墳らしいマウンドの土壇を残した主郭の平坦地は南北に極小の曲輪が2-3段あるが主郭西から北面を囲むように延びる帯曲輪は少し盛り上がって土塁付き曲輪の様にみえる。其の帯状の西端の曲輪からは2m程の段差下方から尾根を抱え込んだ”コの字形”の
貝田城:城域東端の土橋付堀切

竪堀が延びる。丹波の城では波賀野城や矢代城/明智方の向城として丹波では特異な縄張りのを持つ大上西ノ山城等、例の少ない竪堀は丹波の山名氏が茶臼山城や板井城等を拠点ともしており畝状竪堀を駆使した但馬山名氏の影響を受けたものか? しかし尾根も谷も比較的緩斜面で堀切も短く浅い!が当城では防禦が最も強化されている所です。

(現地・細工所城案内・丹波篠山五十三次ガイド / 丹波国八上城遺蹟群に関する総合研究!!の縄張り図を参照))

貝田城  浦山? 255m  篠山市貝田浦山(蔵六寺から貝田城)

貝田集落南西端にあってR173号線側に其の丘陵末端を落とすのが貝田城とばかり思っていたが貝田城は反対に集落北西にある低丘陵末端が城址だった。南側に見える貝田砦同様に細工所城や細工所城攻めの明 智軍が大砲を撃ったという鉄砲丸に通じる尾根筋に荒打山(点名:幡路 370m)があって此処にも幡路城(幡路砦)があり
貝田城山麓の蔵六寺

三つの城砦とクロスするジャンクション尾根から南へ伸び出す尾根先に貝田砦があり、三方を丘陵尾根に取り囲まれ 南から東〜北へと包み込まれた集落の北側にも比高20m程の低丘陵尾根が西方に伸びてR173に其の端を落としており其の山麓に亀井山蔵六寺(曹洞宗)があります。
貝田城・籾井川(栃梨城側)から福住方面を望む

蔵六とは頭・尾・4足の6つを隠し持つことから亀の異称といい弘治年間(1555〜58)太寧寺六世喜雲柏悦和尚兵火等により 衰退し大破していた当寺の堂舎を修築し中興の祖と云われます。薬師堂の本尊:木造薬師如来坐像は昭和53年3月17日:兵庫県の指定文化財となっています。桧材の一本造りで像高77cm像の作風からは目は長目で腫れぼったく、
緩やかな尾根上にある土橋付き堀切

眉は比較的大きな弧を描き、引き締まった口元・下ぶくれの顔など平安時代後期の古調を帯びているが流れるような衣紋や膝の部分の形式化、胸が広く肉付き豊かなボリュウム感等にはやゝ硬さが認められ、製作年代は光背とともに鎌倉時代の作とも考えられています。室町期の後補もみられ金箔は江戸時代末期のものと言われている。
城域尾根の西端:空堀状から帯曲輪が3段ほど続く

この蔵六寺背後の丘陵に「浦山古墳」があるというので北方の 井串にあるスズ岡山古墳に寄ったついでに古墳に関するデータや位置等未調査のまま・思付きで探してみることにしたのですが案の定、場違いの丘陵部でしたが「丹波国八上城遺跡群に関する総合研究」にも載せてあるが、
主郭南東の細長い帯曲輪

長い間貝田城とばかり思っていたのが貝田砦。そして此処こそが貝田城でした。貝田集落を両手で包み込む様な二つの尾根先には、どちらにも城郭遺構が残り、しかも曲輪の段差は高低差が殆どない城域の尾根上にはないが尾根筋南北の斜面には腰曲輪・帯曲輪が3〜4段ある。東西に二つばかりある盛上がった小丘は古墳のマウンドらしい?。
尾根東端の土橋付堀切

R173号の通る西端から尾根筋に取り付いたが北下方には北にのびる枝尾根との谷幅間一杯に池がある。 この枝尾根は末端付近は六地蔵と輿を置いた石壇だけが残る墓地跡だ。この尾根には城郭遺構も・在ると思っていた?古墳も見つからなかった。墓地上に幾重にも続く山道状の棚は昔:桑の木でも植えてあった跡なのかな?。比高10m程登って
主郭南西端:高い段差で曲輪が続く

西〜北側にかけての広い尾根の斜面途中を土塁付き空堀状が捲く。末端は竪堀となって国道側の急斜面に向うが 堀切というより空堀の感がする。4m・2m・2m程の段差で帯曲輪が連続して主郭部の尾根に着く。古墳のマウンドを利用したと思える曲輪があり、西へは殆ど段差もない緩やかな尾根が延び土橋付堀切となる。北側下に帯曲輪と小さく細い腰曲輪が有るが 曲輪間の端を短い竪堀が遮断している。更に緩衝帯の様な平坦地が 蔵六寺裏手の墓地から小丘陵尾根に上がってくる鞍部に出るが堀切状となっていて段差を越えて城域の西尾根にはいる。
尾根西北端に土塁を残す空堀状堀切!!

細工所城(荒木城・井串城)の支城だったかも知れないが貝田砦側とは違い、此の丘陵北は井串集落500m程先には明智軍の駐屯所ともなった細工所砦がある。此処は幡路砦や鉄砲丸を指揮する明智軍の陣城としての可能性や細工所落城後も細工所砦とともに使用されたものとは感じる。
(現地案内板及び「丹波篠山五十三次ガイド」WebのPDF版  篠山市教育委員会 を参照)


瑞祥寺と那須与一大権現

篠山市には源平合戦に「一の谷」へ向かい・また兄源頼朝から追われた義経が逃れた丹波道には義経や其の従者:伊勢三郎や那須与一等に関する伝承が彼方此方に残る。県道301号【笛吹山伝説や伝:伊勢三郎の供養塔がある】R372号【(デカンショ街道・京街道)四季山の馬池等】・京を繋ぐ
山門を潜る左手に「那須与一 権現堂」・正面に瑞寺

亀岡方面からは福住を経ての入出には、その二箇所が繋がる筈のない?R173号の井串に 義経従者の那須与一宗隆に関する伝承がある。 三草合戦から一の谷・屋島の合戦・篠山に隠棲?東北への逃避行…等、各所の伝承を追えば其々の行動コースが見えてくるかも知れません。亀岡市と言えば此処同様・急病になった那須与一が回復祈願したという阿弥陀如来坐像を安置した法楽寺の与市堂がある。
那須与一大権現・的矢の絵馬が掛かる

井串にも此処を通過の際・病気になり細工所城下に在った竜峯山観音寺に病気平癒を祈願したところ快癒し、源平屋島の合戦に両軍注目の中で見事に扇の的を射落します。R173号線細工所の信号を南へ向かい井串バス停前から霊輝山瑞祥寺(曹洞宗・本尊:阿弥陀如来坐像)は 天文年間(1532〜55)細工所城主:荒木山城守氏綱(氏香)が戦乱で大破していた細工所城下に在った観音寺の五坊を廃し、洞光寺七世一華現易和尚を開山として創建されました。
瑞祥寺の那須与一大権現

その後:貞享元年(1684)元観音寺から観音堂が移築されたが宝暦年間(1751〜64)全山焼失し現在の堂宇は再建されたもの。瑞祥寺には那須与一の縁を得て後に京都即成院より、宗隆のご分霊をいただき祀られる「那須与一大権現」は源平・屋島の合戦での故事から武運長久・諸願成就の他にも中風封じに霊験があるとされ受験生には「的を射落とし」「合格が叶う」として参拝者があり、お堂には「当り矢」の奉納絵馬が掛けられている。
(現地案内板 「丹波篠山五十三次ガイド」を参照)
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